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岡山放送社友会
エッセイ
*桃太郎知事と喜劇俳優・伴淳三郎
以下の文章は、令和2年4月から令和4年3月まで「最上教報」(最上教報社発行)に<シネマがくれた贈りもの>というタイトルで連載したエッセイの一部です。最上教報社の了承を得て転載します。鷹取洋二。
第1回は、
桃太郎知事と喜劇俳優・伴淳三郎
映画「二等兵物語」(監督/福田晴一、出演/伴淳三郎、花菱アチャコほか)の第1作が公開されたのは、昭和30年でした。伴淳、アチャコの新米二等兵が、軍隊内で上官を相手にてんやわんやの大騒動を繰り広げるこの軍隊喜劇は大ヒットし、以後、昭和36年までに計10作が製作されるという人気シリーズとなりました。
その第5作「死んだら神様の巻」の岡山ロケが行なわれたのは、昭和33年3月でした。サラリーマンを卒業後、“シネマで散歩”と題して映画のロケ地紀行を雑誌に連載していた私は、早速この映画のVHSを手に入れ、取材を始めました。
岡山ロケの行われた昭和33年といえば、映画館への入場者数が11億2745万人と史上最高の数字を記録した年で、まさに日本映画の黄金時代でした(ちなみに令和元年の入場者数は1億9491万人)。
取材のスタートは、ロケ当時の地元紙のチェックです。ありました。3月13日付の山陽新聞夕刊の記事。<“二等兵物語 死んだら神様の巻”岡山ロケのため、伴淳三郎、アチャコらのものものしい軍服姿の一行130人が13日、午後0時10分岡山駅着下り急行「さつま」で来岡した。岡山駅は三木知事をはじめ県のブラスバンドが盛んな歓迎陣をしき、約1万人がつめかけ大騒ぎ・・・>。
映画全盛期のヒットシリーズのロケとはいえ、ブラスバンドまで動員しての知事自らの出迎え・・・。この異例ともいえる大歓迎に興味を持った私は、戦後、旧陸軍の部隊跡に創立され、当時の兵舎を改造しただけの校舎がまだ残っていた岡山大学のキャンパスや鷲羽山、瀬戸内海に浮かぶ周囲3キロの小さな島“釜島”などでのロケ地取材と並行して三木知事に関する文献を探しました。
見つけた一冊が「私なき献身 三木行治の生涯」(財団法人 故岡山県知事三木行治顕彰会刊 昭和41年9月21日発行)でした。ここには、昭和26年の岡山県知事就任後、政治は愛情だ!をキーワードに、“太陽と緑と空間”を理想とする郷土づくりに邁進した三木知事の業績とその柔和な童顔から桃太郎知事の愛称で県民に愛され信頼され、昭和39年に急逝した三木行治という人の全てが、資料と証言を基に記されていました。
岡山医科大学卒という医師としての経験を生かした福祉政策、岡山を近代的な工業県にした水島工業地帯の整備、最も国体らしい国体といわれた岡山国体の開催など数々の業績とは別に私が注目したのは、この本の中に散見される<三木さんは、広報活動にも細かい神経をつかった>、<観光開発、宣伝に力を入れた三木さんは、岡山県のPRマンだった>、<三木さんの身についたPRは、県のどの媒体よりもすぐれていた>などの記述でした。
そうか!伴二等兵を岡山駅まで出迎えたのは三木という岡山県のPRマンだったのです。観光地の鷲羽山もロケ地になっていることを考えれば、三木知事は映画のロケが地域の活性化につながることを考えていた宣伝プロデューサーだったのかもしれません。
もう少しその考えを飛躍させてみましょう。本誌(注:「最上教報」)での連載第1回で蒜山ロケの映画を紹介しました。そのうち「応仁絵巻 吉野の盗賊」と「金の実る樹に恋が咲く」の2本は三木知事在任中の作品です。知事が宣伝と共に力を入れたのが観光開発でした。そして最初に手がけたのが、蒜山高原を“西の軽井沢”にしよう、というものでした。この2作品のロケを蒜山で!と仕掛けたのは三木知事だったと考えても不思議ではありません。
「私なき献身 三木行治の生涯」で、もう一つ興味深い文章を見つけました。巻末に故人の親しい友人85人が、“三木さんの思い出”と題して追悼文を寄せているのですが、その友人の中に伴淳三郎の名前があったのです。
彼は追悼文で<喜劇俳優と知事さん、人は異なる取り合わせと思われるだろうが、私が岡山を訪ねれば、多忙な中、何をおいても快くお会いして下さった。私も心から知事さんをお慕いし、知事もまたこよなく私を愛して下さった・・・>などと記しています。
2人は岡山駅出口での握手をきっかけにお互いを認め合い親交を深めていたのです。知事と喜劇俳優、2人の親交とはどのようなものだったのか。三木知事に関する文献を調べてみましたが、2人の交流についての記述は見つかりませんでした。が、写真を2点見つけました。「炎 燃えつきるまで」(監修/曽我与三郎、岡山第一出版社、昭和50年発行)には、知事室と思われる部屋で、軍服姿の伴淳三郎、花菱アチャコが知事と談笑しています。多分、ロケの期間中に写されたものでしょう。もう1点は、「私なき献身 三木行治の生涯」に掲載されていました。どこか料亭の和室でしょうか、ネクタイ姿の伴淳三郎が盛んに知事に話しかけている様子を写したものです。岡山を訪ねた伴さんを知事がもてなしていたのでしょう。
追悼文で彼は<三木さん!なぜ死なれたんだ!私と約束したのに。伴さん、岡山の発展のために観光映画をつくろうと。準備もできて、着々と話が進んでいた矢先、ぽっくり三木さんは亡くなられた。私は三木さん、楽しみにしていたんですよ・・・>とも記しています。
その伴淳三郎も昭和56年に亡くなりました。「二等兵物語」の岡山ロケをきっかけに親交を深めていった男2人が企画していた映画は、幻となってしまいました。出来上がっていたら、どんな映画になっていたのでしょうか・・・。
(「最上教報」令和2年6月号より転載)
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